2007年10月16日火曜日

伊藤博文 と 本間俊平


 初代内閣総理大臣・伊藤博文は、小田原に永住するつもりで、1890年(明治23年)別邸・滄浪閣を建てた。その後、貴族院議長に就任、第2次伊藤内閣を組閣、日清戦争もあるなど、静観の日々を送ることができなくなった。
 1893年(明治26年)に、伊藤は民法改正に着手する。起草委員に選ばれた穂積陳重、富井雅章、梅謙次郎の3名の法学博士は、1894年(明治27年)の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもり、民法典原案の立案執筆を行った。この地は「民法発祥の地」とされることになった。
 しかし、伊藤は民法施行を待たずに、1897年(明治30年)、滄浪閣の名と共に大磯町へ移っていった。その後、建物は養生館(リゾート旅館)として再開されることになったが、小田原大海嘯、関東大震災で壊滅した。写真は、その跡地に建つ伊藤の胸像と滄浪閣跡の碑です。 -Wikipedia-
 伊藤が朝鮮府総督として是非欲しがった人物がいます。それが「秋吉の聖人」「大理石の恩人」と呼ばれた本間俊平です。
 明治35年、国会議事堂建設の内装に使う大理石の調査に秋吉の地に赴いた本間は、せがまれて官庁をやめ長門大理石採掘所を開きます。
 彼はこの地で出獄人や不良者、世間から見放された若者達を雇い、彼らを一人前の人として自立できるように苦楽を共にする。しかし当時の村社会や、既存宗教の人達に本間氏のキリスト教的な行動は理解されず、いやがらせや妨害に合う。あるとき苦労の末採掘した大理石を無意味に破壊され、彼は失意のうちに神へ祈りを捧げた。…本間俊平 
 伊藤も目の付け所が良い。もし本間が伊藤の要請を受けて朝鮮府総督になっていたとしたら、歴史の教科書に名前が載ったかも知れません。後年、伊藤は朝鮮で暗殺されましたから、断って正解でした。現在でも出獄人を受け入れる企業は無いでしょう。新渡戸稲造、内村鑑三、新島譲と同様に歴史の教科書に出て来て然るべき名前だと思います。  

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